Vincent Mourou – The Man Who Left Hollywood For Chocolate

ヴィンセントの力強く熱意に溢れた、異常と言えるほど活発なその人物像は語りきれません。以下のインタビューは最初にカカオを手に入れた地、バリア省に向かうタクシーの中で行われたものです。マルゥのインターンたち、それに彼の足元で忠実に座る愛犬エラも乗せてタクシーは走ります。

ご出身は?

父親がレーザー物理学者だったんですけど、彼は子どもの頃西部劇をよく見ていて、広い荒野の開拓を夢見ていたそうです。フランスは1997年まで徴兵制があったので、父の選択は軍隊に数年入るか、ケベックで博士課程に進むかでした。そういう流れで僕は1971年にケベックで生まれました。数ヶ月後、僕らはサンディエゴに1年住んで、それから父がエコール・ポリテクニークで教職を得たのでパリ郊外の街に移りました。

お母様は?

母はとても優秀な体操選手で、段違い平行棒の国内チャンピオンでした。アートやデザインも好きでしたね。パリのエリート校を出ているんですよ。

最初のチョコレートの記憶は何ですか?

いつが最初かわからないですね。いつでも食べていましたから。両親がチョコレートが大好きだったんです。一緒に寝転がってダークチョコレートを食べていましたね。でも、いつも祖母たちを思い出すかな。

父方の祖母はよくパンとバターとミルクチョコレートのおやつを出してくれました。それから1時間離れた母方の祖父母のところへ行くと、同じものをダークチョコレートで用意してくれていて。好きなだけチョコレートを食べていました。いい時代でしたね。

アメリカでの子供時代はいつからですか?

6歳のときにアメリカへ移りました。鬱が出た最初かな、全然元気がなかった。フランスでは大きなお城があるパリ郊外の小さな中世の街に住んでいたんです。子供にとってあれ以上おとぎ話のような環境はありません。それがそこから引き剥がされて寒くてどんよりしたロチェスターに放り込まれたのですから。70年代のマンションも、雪の中スクールバスを待つことも、ワクワクすることが何もなかったですね。

両親は自分たちをアメリカへの移民だと思ったことはなかったようで、毎年夏に僕たちをフランスのいとこや祖母たちのところへ行かせてくれました。父はロチェスターの光学の学会で2年の契約があったのですが、その期間の終盤、ロチェスター大学が教授の職を申し出てきたので残ることになりました。それでグリーンカードを取得して更に8年いました。

毎年夏にフランスへ戻るのはどんな感じでしたか?

一年で最高の時期でしたね!本当に自由で。11歳のときにはやりたい放題していました。いとこたちはみんな年上で、僕と兄をいろんなところへ連れて行ってくれました。アメリカに戻ると何もかもすごく制限されて。高校に行く頃には全部見やり尽くしていましたね。

大きくなるとワイン農家にトラクターなどを売っていた叔父の手伝いをして夏を過ごしていました。と言っても基本的には先祖が代々住んできた二つの小さな街を行ったり来たりして走り回っていただけですが。

大学はどうでしたか?

結局ミシガン大学の医学部進学課程に行きました。流れ通りに行くのが嫌で、神経心理学の学位を取って後「次は何しよう?」となったんですね。しばらくケータリングやバーテンダーをしたり、小規模の映画を作ってみたりしていましたが、最終的にLAに行こうと決めました。古くてかっこいいBMWのバイクを買って、毎日8~10時間ほど走りました。あの頃は急いでいましたね、お金がなくて。

LAはどうでしたか?

最初の数日は昔のルームメイトの古いワンルームのアパートの床で泊めてもらいました。持っていたのは200ドルだけで、本当に色んな人たちに会い続けた日々でした。

最初の1年は大変でした。無給かタダ同然で色んな人たちの元で働いて。編集の経験を積んでいて、自称プロデューサーの運転手を1年間していたんだけど、ガソリン代も払ってもらえなかったり。レンジローバーを運転するロシア人の男にハリウッド大通りで追突されて、バイクがひっくり返って体の上に落ちてきたこともありました。起き上がって「なんてところだ」って思いましたね。誰も止まって助けに来なかった。車を運転していた男が立ち去ろうとしたので、車に手を突っ込んでキーをつかんで。みんなに訴えた方がいいと言われたんですが、僕はそういうことはしなかったですね。

やっと近所の人が夜勤の映画編集の仕事をくれて、無償でしたがそれでソフトウェアの使い方を学びました。それから、ある友人が週1,200ドルのインデペンデント映画会社の編集の見習い仕事をやめると電話してきたんです。ショーン・ペンが出ている映画で。僕は24歳でした。それが転機でしたね。

その頃チョコレートは?

Trader Joe’sが美味しいチョコレートを売っていて、値段も安かったですね。その頃、僕はエコパークに住んでいて、友人が教えてくれたリフライド・ビーンズとラーブ(タイのひき肉サラダ)で生き延びていました。

それから広告の仕事をすることになったんですよね?

9年間LAに住んだ後、パリのブリュッセルで過ごしていました。それからロンドンのある会社で1日14~16時間働くことになったのですが、楽しみも満足感もありませんでした。いいホテルに泊まることはできたけど、睡眠時間が4時間とかで。生きがいが全くなかったですね。

LAにも行きましたが友人とランチに行く時間もありませんでした。もう辞めようと思っていたとき、サンフランシスコに新しいオフィスを立ち上げて欲しいと言われたんです。他にやりたいこともなかったので引き受けました。

それから少しずつお金を貯め、仕事を辞めて旅に出ました。全て引き払いました。日本へ行って、それから数ヶ月東南アジアを旅して回りました。ホーチミンに戻ったとき、何となくそこに留まろうと決めたんです。

9ヶ月後、サミュエルに出会いました。Facebookでラムドン省のジャングル・ウィークエンドについての投稿を見て参加することにしたんです。参加者は10人いて、食べ物はジャングルで採るというものだったんで、1.5リットルの水だけでその週末を過ごしました。

バリア省をベースにする話はどのように始まったのですか?

サミュエルはすでに国有のカカオ会社で働いていました。Googleで調べてバリアにある農場を見つけた、それだけです。サミュエルが地図を描き、車で向かいました。どこにカカオが育っているか分かっていなくて、道端に停めて生えている植物を確認したけどコーヒーか何かだったり。

最初のチョコレート作りはどんな感じだったんですか?

素晴らしかったですよ。2011年2月1日に最初の豆を手に入れて、初めての試作を一緒にしました。その前のクリスマスに僕は農業関連の企業で働いていた知り合いから豆を買って、フランスの母のオーブンで焙煎しては何となくそれを食べたりしていました。

最初にチョコレートの器具を組み立てた時の感じは?

初めて試作した時はサミュエルのオーブンとブレンダーを使ったんですけど、すぐにオーバーヒートさせてしまいました。いろんな機械や道具について調べ始めてはいたんですが。

酸味が強く、かなり生っぽくて、ザラザラしていました。でも可能性はとても感じました。よくわからなかったけど、時間をかけて色々道具や手法を使えばと思っていました。

最初に要るのが分かったのは、インド料理でレンズ豆やひよこ豆をすりつぶすのに使うウェット・グラインダーでした。レタントン通り沿いにあるインド料理屋、Ganeshへ行ってお店の人にそこの機械で試させてもらえないか頼みました。彼らは毎日使っていましたから。それからサミュエルと僕は最初の出張にシンガポールまで飛んで、リトル・インディアでウェット・グラインダーを手にしたんです。

当時チョコレートの作り方を教えてくれる人はいたんですか?

こちらでの開発プロジェクトを終えようとしているドイツ人の農学者に出会って、木や発酵についてはどういうものを探せばいいか教えてもらいましたが、チョコレート作りについてはそんなにかな。

初めの頃は形も何もなかったです。変な味がしなくなってきてから、ようやくいけるかもと思い始めました。それである時期からチョコレートっぽい味がしてきたんです。

やりながら学んでいましたね。進む方向もわからない感じで。ただただ良いものを作ろうと頑張っていました。少なくとも6, 7ヶ月、色々な豆で実験を続けました。シングルオリジンのチョコレートというアイデアは豆を探す過程で出てきたんです。色んなことを同時に発見している感じでした。何ができるか、できないかが分かってきて色々形になっていきました。

YouTubeで検索したりとかも?

丁度昨日の夜、トーク番組の方に自分たちのプロセスを全て話しましたよ。今はビーントゥバーメーカーのためにキットや小さな機械を作る会社もあるんですね。当時のYouTubeには何もあがってなかったですからね。原材料からどうやってチョコレートを作るかなんて何も情報がなかった。

僕らはただ自分たちの味覚を頼りにしていました。当時は二人で1時間かけて手で豆を割って、やっと0.5キロのチョコレートを作れる感じでした。そのだいぶ後にCrankenstein(自家醸造者が使う手持ちドリル型のグラインダー)を組み立てました。それからビニールパイプとドライヤーで初めてのウィノワー(カカオの実と殻を風を使って分別する機械)を作ったんです。その頃もまだ焙煎やレシピを色々同時に試している状況でしたね。

最後に、フランスの菓子職人の求人掲示板で見つけたアルノーというショコラティエを雇ったんです。アルノーは熟練したショコラティエでしたが、カカオ豆からチョコレートを作る方法は知りませんでした。そういうことは製菓学校では教えませんからね。アルノーは衛生的な製造工程の立ち上げとスタッフのトレーニングを手伝ってくれることになりました。

最初の6ヶ月はどんな感じでしたか?

小ロットで53回チョコレートを作りました。僕たちの工程ではそれに3日かかりましたし、一度に生産できるのが1キロで、チョコレートもまだベストではありませんでした。課題や問題だらけでしたね。それに周りは僕たちのことを変人呼ばわりで。

ある程度のものは作れるようになってきたんですが、まだどこか面白さには欠けていて。香港にそのチョコレートを持って行って、アジアフードショーでウィリー・ハートコート・クーズに会いました。彼はウィリーズ・チョコレートのプレゼンテーションを行っていて、僕たちがサンプルを渡すと粗糖でカカオの風味を隠してしまわないように、と言ってくれました。僕たちは彼のアドバイスを徐々に理解していきました。キャラメルの風味が消えて、チョコレートがより生き生きと、よりおもしろくなってきたんです。それが6月でした。9月には注文が入るようになっていました。

今年、メコンデルタのマルゥの農家たちが予想外の干ばつと暑さに見舞われましたよね。マルゥが大きくなることで、カカオの生産を増やしていくのにどう役立つでしょうか?

正直なところ、そう単純ではありません。ベトナムでのカカオにはもっと発展が必要ですし、僕たちももっと関わっていかないといけません。カカオを育てること自体はそんなに難しくありません。課題となるのは土地の値段と、カカオをきちんと世話することなんです。

マダグイ地区のアグロフォレストリー・プロジェクトでは、そういった課題にたくさん直面しています。素晴らしいプロジェクトですが到底簡単なものではありません。将来性も確約されてはいませんし。今はカカオを土地に慣らしている段階です。うまくいけば更に植えていくつもりです。

Co-founder

Vincent Mourou

ヴィンセント・モロー

Co-founder

Sam Maruta

サミュエル・マルタ

Maison Marou Chef

Stéphanie Aubriot

ステファニー・オブリオ

Maison Marou Manager

Jason Laurent

ジェイソン・ローラン

Ba Ria Province Farmer

Nguyen Van Duc

グエン・ヴァン・ドゥック

Cacao sourcing

Thuy Nguyen

トゥイ・グエン

© 2020 MAROU CHOCOLATE