Sam Maruta –
Marou’s Globe-Trotting Madman

サミュエルは国際金融の仕事とチョコレートを食べることに人生を費やしたのち、2010年にマルゥをヴィンセントと共同で立ち上げました。ラムドン省の農場に向かう途中、ハイウェイ20号線を息を切らせて走るマルゥ・モービル、シトロエン・ダラットの中でのインタビューです。

ご出身は?

パンジャという南西フランスの小さな村です。当時の人口は400人ぐらいだったんじゃないかな。

村で唯一アジア系の子供なのは大変でしたか?

いえ、全く問題なかったですよ。見た目にアジアっぽさがあまりなかったですし。とても小さなコミュニティで、僕は父親が日本人だったAlbert Destouetの孫として知られていました。

チョコレートの最初の思い出は?

パンとバターとシンプルなダークチョコレートですね。祖母がバターを塗ったバゲットの上から板チョコ丸々1枚分を振りかけて。美味しかったな。

市販のダークチョコレート?

そうですね、祖母はパン屋や食料品店のを買ってましたから。でも高校の頃にはリンツの70%カカオばっかり食べるようになっていました。1日1枚とか。何かを大量消費する初期の経験だったんじゃないかな。とにかくリンツを買って帰ってくれと父親に頼んだりして。

それからヴァローナ(フランスの高級ビジネスブランド)が缶入りチョコレートを売り始めたんです。小さな正方形のチョコレートが18個入ったやつで。めちゃくちゃ高かったんですけど、大叔母が僕のことがお気に入りで、いつも買ってくれたんです。よく中身を食べて容器をとっておいてたので、今でもたくさん家にあります。

お菓子の方はどうでしたか?

自家製のものが多かったです。祖父と僕はクレープが大好きで、作るスピードが追いつかないぐらいの速さで食べちゃって。いつも誕生日には祖母が1つのコンロでクレープ用のフライパンを3つ4つさばいていました。

お父様は料理されていましたか?

今でもよく作っていますよ!いつも日本食ですね。

日本には連れて行ってもらいました?

3回ぐらい行ったかな。

その時のチョコレートに関する思い出はありますか?

2度目が10歳の時だったんですけど、祖母が得意の板チョコサンドを2つ作ってくれて。なぜか1つスーツケースの中に入れちゃってたんです。北海道で2、3週間過ごした後、チョコレートが挟まったカチカチのパンを包んだアルミホイルを見つけたんです。今までの人生の中でも飛び抜けて幸せな瞬間でしたね。当時の北日本ではまだチョコレートはそんなに出回ってなかったですから。

子供時代を振り返ってみるとどうですか?

かなり変わった環境だったと思います。日本人の父親とフランス人の母方の祖父母に育てられたので。フランスの農家でとても古風に育てられたと思います。

家を出たのは?

18歳でパリの学校に行きました。

ベトナムにはなぜ来ることになったんですか?

パリではパリ政治学院に行っていたんです。直近のフランスの大統領6人中5人が行ったような学校なんです。楽しかったですが、カルチャーショックでした。自分はあまりに若くて何も知らないんだと。子供時代、自分の周りはみんな農家で、会社で働いている人なんて誰一人いなかったですからね。

それで1995年にインドシナ系のつながりを持つ人たちがつくったAsie Extrêmeという学生組合を通じて、夏をベトナムで過ごした人たちと一緒にいました。まあ、面白半分でその組合に入ったんです。その年の終わり、英語教育のために組合が僕や他の学生たちをベトナムに派遣しました。1996年の6月、パリからアントノフ(ロシア航空機)に乗ってモスクワ経由でハノイへ行きました。ハノイで歓迎会があったんです。

その後僕は他のボランティア4, 5人と電車でホーチミンへ、そこからバスでサデークへ行きました。魔法瓶に入ったお湯(飲む用)とバケツに入った水(体を洗う用)と蚊帳が備え付けられた自分の部屋が校内にあって。あと語学クラスのためのカセットプレイヤーも。

毎日蒸した魚と豚肉の缶詰が与えられたんですが、とにかく美味しかった。いい思い出がたくさんあります。そこの学校の校長先生が昔の共産党員で、フランス語が流暢でした。学校の向かいがパゴダ(仏塔)で。それである日、その先生がパゴダの高僧が友達だから会いに連れて行くよと言ってくれたんです。みんなには僕のものだと言って食べ物をどっさり持って行って。それでそのお坊さんは周りの修行僧たちにフランス語で話せるよう僕たちだけにしてくれと言いました。みんなが視界からいなくなるとすぐ、彼は僕らが持ってきた鴨や肉に飛びついたんですよね。お坊さんはヴィーガンじゃないといけないからね。

サデークは今も20年前と同じような感じですね。基本的にまだ手付かずなんです。それが大学最後の夏だったんですが、それからどうするか決まっていませんでした。最終、ファックスが何通かサデークに届き、イギリス・カンタベリーのケント大学の大学院に行くことになりました。15キロ痩せて9月にフランスに戻りました。

ひと夏で15キロも?

胃腸炎でね。

それからどうなったんですか?

ベトナムからフランスに戻って、そこからイギリスに車で向かいました。イギリス、いいチョコレートがなかったですね。Green & Blackが出てきたのを覚えています。オーガニックのダークチョコレートだけど、そんなに美味しくなくて。

一年で修士を終えて、東京の銀行で働き始めました。当時、そこそこ賢くていい生活がしたければ銀行はいい選択肢だったんです。田舎の若者がウォールストリートで働き始める映画みたいな感じでした。

毎日お金を稼ぐためにスーツを着て高層ビルに通っていました。あれはあれでよかったです。その頃妻にも出会いましたし。仕事があって、彼女がいて、アパートに住んで、それに大型バイクも持ったりして。

それを全部なげうってベトナムに?

話せば長くなりますが。銀行内部の秘密警察みたいなことをするような出世コースにいたんです。内部監査とか報告とかをやる。全然面白くなくて、向いてなかったんだと思います。6年間あるプログラムのうちの2年やって、ストレスでやられてパリに戻ることになりました。それからはアジアでのビジネスを展開しようとしている人の元で働いていました。その人がベトナムに行ったことはあるかと聞いてきたので、あると言ったんです。2005年に僕はマーケット調査のためにベトナムへ再び行くことになりました。そうしてビジネスプランが浮かんで、ベトナム国立銀行に許可を申請しました。2007年の5月に許可をもらって、妻と2人の幼い娘とでベトナムに移ったんです。

大変でしたか?

そうですね、でも皆さんが考えるのとはちょっと違う理由だと思います。大変だったのは、自分たちが立ち上げた小さな会社内のシェイクスピアみたいな信じられない内輪もめでした。あれは本当に熾烈な環境でしたね。稼ぎのいい仕事があって好きな場所にいるのに、その楽しい部分を全部取ってしまった感じでした。2010年に契約期間が終わって、10年間務めた銀行業界から距離を置こうと決めました。それからヴィンセントに出会ってチョコレートのアイデアが出てきたんです。

最初の頃はどんな感じでしたか?

楽しかったです、挫折もいろいろあったりして。(ここで坂道にさしかかって車がうなりをあげると、サミュエルは「ボロ車っぽいかな?」と聞いてくる。)

わざわざ遠い僻地まで運転して来させたのに「あ、すみません、昨日豆全部売ってしまって」なんて農家さんに言われたり。でも何か失敗があれば、それは自分たちが何か間違えたんだと思うようにしていました。

カカオを買った最初の数回はうまく行かなかったですが、徐々に分かってきましたね。自宅のキッチンで、今でも工場にある小さなグラインダーで何度も実験して、チョコレート作りを学んでいきました。キッチンのオーブンで焙煎して、指の皮がむけるまで手作業で豆の皮をむいて。

ちゃんとした作業場に移るための資金を集めるために、あちこち走り回っていろんな人を説得しました。小さなケーキ型でチョコを作って、町中を売り歩いて。それが2010年の秋です。2011年の1月にRice Creativeが包み紙を作ってくれて僕たちのブランドができました。

お父様が会社に来られたことは?

毎年来ますよ。常連です。

Co-founder

Vincent Mourou

ヴィンセント・モロー

Co-founder

Sam Maruta

サミュエル・マルタ

Maison Marou Chef

Stéphanie Aubriot

ステファニー・オブリオ

Maison Marou Manager

Jason Laurent

ジェイソン・ローラン

Ba Ria Province Farmer

Nguyen Van Duc

グエン・ヴァン・ドゥック

Cacao sourcing

Thuy Nguyen

トゥイ・グエン

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